プールでリハビリ→リハーサルその①→フラメンコ修行という日程。
移動中はAMね。
で、ちょっと面白い話を聴いたので、思い出してみる、・・・と。
N村雅俊さんの番組にて、恐らくクラシック関係者のゲスト氏が色々とお話を。
オーケストラと指揮者の関係について、裏話をしてはりました。
ある指揮者が○○オーケストラに招聘されたとします。
そうしますと、初回のリハーサルにおいて、その後の出来は9割がた決まってしまうとか。
指揮者を迎え撃つオーケストラの受け入れ態勢としてはいくつかの段階があって、
まずは団員の方々はとりあえず、「お仕事」をしようという構えでそこに挑むと。
与えられたことを確実にこなせばそれで良いと、そういう意味での「お仕事」です。
この段階では指揮者が誰であろうと一緒というわけです。
「与えられたこと」
これすなわち受動的な関り方であります。
ところが、リハーサルにおいて、楽曲に対するイメージ等、「そんな解釈があったのか」「そんな演奏法があったのか」、というような、類まれなエッセンスを提示されますと、団員達は「是非この作品を創ることに参加したい」と思うようになるのだとか。
カリスマといわれた指揮者、例えばカラヤンのような人は、本番はただ指揮棒を音楽の上に添えていただけだったそうです。
すなわち、リハーサルの段階で全てが完成され、闘魂が注入されつくされた状態のため、オケが勝手に音楽を奏でてくれていたと。
これは関係がうまくいっている例。
いっていない例はどんなんかといいますと、
何かいやな指揮者がきたとします。
今日は地方公演。
もう少し速く終演できれば一本早い新幹線に乗れるのにな・・・。
という雰囲気がオケに漂いますってぇと、コンサート・マスターはその空気を敏感に感じ取り、全ての曲を「ちょい速めに」弾くそうです。
そうすると、早く帰れるから。
コンマスが速めに弾けば、オケは付いていかざるを得ず、指揮者はオケに追随するしかないと・・・。
あ~あ。
な展開。
大きな声ではいえませんがね。
とは、ゲスト氏。
・・・これラジオなんですけど。
願わくば、そんなコンサートには居合わせたくないものです。
さて、直前の「指揮者が嫌われた例」は極端なバッド・エンディングとして、成功例の方も、それはそれで「?」な部分は残ります。
というのは、ラジオのゲスト氏は、「リハで全てが出来上がっている」ので、「指揮者は何もせんでも良い」ということを言っておられたので。
この字面を真に受けますと、
本番はリハの模倣、或いは再現か?
という話になってきませんか?
私の考える「ライブ」的では無いな、と。
これを字面どおりととって巷の音楽に当てはめると、「面白い」という感覚には程遠いものになるかと思いますが、こと、クラシックの話ですから、何かもう一山ありそうな気もするんですね。
その「もう一山」の可能性としては、キリスト教などが絡んでくるかもしれないな、と思いつつ、詰めが甘い私はそろそろ休もうかと思います。
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いちいちつっかかってゴメン(笑)。
本番で何もしないでいいのは識者なのであって楽団員はその日に持てる力を全て出し切る。つまり「ライブ」的である。と、言うわけだよね。
音楽を演奏する人間の数が多ければ多いほど自由度が減る。北摂サンバ商店で経験済みだよね。つまり事前に作り上げている事の重要度が演奏者の数と比例するわけだね。特に指揮者に関してはその比率はさらに高い。
ところで、一本早い新幹線に乗れるかどうかの話。曲によるだろうけども僕なら「ちょい遅め」に弾くな。
普通全体の速度が速くなる原因の一番大きなものは誰かが少し遅いってのがある。これは遅いとつじつま合わせでフレーズや塊の最後の部分が次の頭に間に合うように早くなってしまう。だから客観的にはせわしなく聞こえる。するってーと回りは速いんだと勘違いしてテンポアップしていく。
多分、件の話は都市伝説の類ではないかと・・・(笑)。
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なるほど!
>音楽を演奏する人間の数が多ければ多いほど自由度が減る。北摂サンバ商店で経験済み・・・
最近小編成でやることが殆どなので、この考えはすっかり抜け落ちておりました・・・。
>つまり事前に作り上げている事の重要度が演奏者の数と比例する
なるほど、前段で腑に落ちたので良く分ります。
・・・このブログ、殆どコメントを頂くことがないので、妄言とか妄言とか満載且つ、僕はいっつもどっか抜けてる(・・・それが考えるべき問題の土台だったりするので厄介です・・・)ので、Xouさんのコメントはいつも「ズバッ!」とつっこんでくれるので、有り難いです!
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もう一つの方なんですけど、これってちょっと苦笑いなんですが、北摂やらせてもらってたとき、タンボリンって相当難しかったです。
現在も、右手でスルド的フレーズ、左でタンボリン的フレーズというようなことをやることは良くあるのですが、こちらのほうがまだグルーヴしやすいです。
あ、話がそれました。
仰るところの、「誰かが少し遅い」「次の頭に間に合うように」・・・、というのは、テンポに対してフレーズが壊れてしまっている例、といってよいでしょうか?
「遅い」ということに関して、僕はここ何年かで気になっていることがあります。
それは、むしろタイム感のことなのですが、どうにも後ろに引っ張られて仕方がないことがタマにあります。
主に民俗音楽に近いもの、或いはそれとロックとのフュージョン等を演奏する場合での話ですが、そんな時は微妙なずれを抱えたまま同時進行していくので(実際に計測したわけではありませんが)、多分同一テンポで、双方ともフレーズは壊れていないのだと思います。
で、これについては、先輩や同年代のパーカッショニストも同様の経験を持っておられるようなのですが、自分の経験も含めて思うのは、「遅いな~」と思うことはあっても、どうも、「速いな~」と思われているようではないと。
それならば、と、そういう場合は多少後方修正して演奏してみたところ、パラレルワールドであることを回避できるようなのですが、生来不器用な体質ですから、うまく対応できないこともままあります。
・・・と、大幅にブレてしまいましたが、都市伝説かどうかは置いておきまして、Xouさんが遅く弾いたとしてもフレーズは壊れないので、ちょい遅めのテンポの曲が演奏されるということになり、一本早目の新幹線は乗れません。
・・・という、返しは如何でしょうか?
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普通コンサートマスターと言えば第一バイオリンの一番前に座っている人だよね。
バイオリンセクションはかれのアーティキュレイションやテンポ、運弓に追随する。
しかし弓を使った弦セクションと言うのはそんなにアタックの有る音でもなくテンポ感がはっきり出るものでもない。
どちらかと言えば金管のフレーズの方がテンポを決定するかもしれない。
とにかくあれだけの人数が居れば誰かがテンポをリード出来ると言うのは幻想でしかない。だから指揮者が必要なわけだよね。
したがってそんな中でコンマスがテンポをリード出来るなんて言うのはおかしな話だよ、だから所詮は都市伝説ってのはそう言う意味。
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ところで君が言ってるビートミュージックでは話が全然違う。
これはいわゆる重いとか早いとかって話でしょ。
これはなんだろう。ビートミュージックだからタイムは絶対に決まってるよね。
その中で遅いとか早いってのは単なる錯覚だよね。
どれか一つの音がアタックをつけるために少し早くなってる場合その次の音との間隔が広がってるから一見遅く聞こえる。
そんな事はしょっちゅう起っている。別にコンピュータがやってるわけでもないので人間はそんな事を極自然にやってる。
また、だからこそいい感じを生み出すわけだよね。でも、タイムは狂うはずが無い。ちゃんとつじつま合わせはしているわけだからね。
さてと、ビートミュージックで重く感じる一番の原因はその本人にある。つまり自分のビートを持って演奏していないって事だよね。
ビートミュージックの場合はそれぞれ各人が自分のビートで演奏して全体のタイムがそろう事によってグルーブが生まれる。
その中に誰か他人のビートを当てにしているメンバーが居た場合彼はウロウロしている。もう一人居たとしよう。その彼もウロウロする。さー物凄い事になるぞ。
つまりこんな事は悩む事じゃないって事だよ。それぞれの能力が向上していけば遅い早いなんて気にならなくなる。
要するに重く感じるって事は自身がビートを出していないってことだよ。だれかが「おまえ重い」と言い出したら、それは言い出した本人にビートが無いっ事だよ。
自分自身のパルスでビートを作り出してる人間は人のビートなんて気にならないものだ。そりゃ演奏技術がヘタでタイムを崩してるってのは論外だよ。
それはただ単にヘタなだけでビートが悪いと指摘してはかわいそうだ。もう少し練習しようねと優しく接してあげよう。それでもダメな場合は頭の中から彼のことは削除しよう。
まあとにかく本人がもの凄いパルスが出ている人に限って人のビートに文句を言っているのを見た事が無い。大概たよりないパルスを出している人が人に文句を言っている。そう言う目で見たら面白いよ。
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昨日はエントリして事切れてしまい、コメントを頂いたのに気付きませんでした・・・。
すみません!
オケ・コンマス・指揮者・テンポについて・・・。
なるほど!です。
「ところで」の方も大変参考になりました。
というか耳が痛いというか・・・。
パーカッショニスト、って民族楽器とは切っても切り離せないわけで、その楽器の使われる民俗音楽を多少なりとも知っていると「思っている」存在なのでしょう。
なので例えば、「ソンゴやろうぜ」と言われて、それがパターンとして「だけ」仕入れてこられたものだったりしますと、どうもやり辛かったりします。
こういう場合感じるのが大抵、遅い、とか、重い、ということで、同一のタイムのうえで進行はしている(のだろう)けど、多少なりともサルサなどをやっていた経験からそう感じてしまい、「こっちやで!」とやる。
具体例は違いますが、そういうことを実際にやってしまったことがありまして、その演奏を観に来ていただいた旧知の方から、
「今日の木村君は怒ってるような音やったで」
と言われたことがあるのです。
その経験があってから、自分なりに色々考えまして、上のような異種格闘技的な現場でも、もっと柔軟な演奏ができるようになった(気になっている)のですが・・・。
思えば、ある音楽に魅せられて、それを始める時、僕的にはその音楽の持つ「ノリ」とか「ニュアンス」を会得しようと思います。
それが、民俗音楽であるとパルスが均等割りで無かったりしててこずります。
また、そういった部分は最終的に如何ともし難い「血」の問題に帰結するようにも重い、ならばその先をどうするか、の方が重要なのであって・・・、
と言うことに思いを馳せれば、挙げた例の如きは、「根拠の無いゴリ押し」であったか、等々・・・。
う~ん、どうも僕のほうは局地的な話になってしました・・・。
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血の話、来たね(笑)。
血なんてないかも。だってリズム感が全然無いブラジル人を知ってるし、アフロアメリカンだって知り合いがいる。もし血なんだったら同一の血なら全員そうなはずだよね。
あの、血じゃなくてどれだけイメージを持ってるかの問題じゃない?
ブラジル音楽を勉強したいと北摂に入った人達で全くマスター出来なかった人達いたよね。彼らはその音楽を普段から聴くこともしなかった。彼らにとっては自分の持てるパターンの一つにしか過ぎなかった。
その「ノリ」とか「ニュアンス」ってのは要するにイメージでしょ。子供のころからサンバを聞いて育てば十分イメージが出来上がる。そんな子供は例え楽器奏者じゃなくてもなんらかのイメージをもっててちょっと楽器を叩いたり歌ったりしたら「イイ感じ」を出せる。
で、色んな民族音楽が世界中にあるけど、自分たちの身近にもある。僕はここ止々呂美の地車を地元の人たちと体験した。彼らは重いとか軽いとか一切いってない。自分のイメージのごり押し(笑)。ほんと笑っちゃうほど自分の中のイメージ。でも、これでこそグルーブするんだよね。多分世界中の民族音楽ってそんなものじゃないかな。しかも、楽器をマスターする過程でもそのごり押しなイメージは変らない。
先進国のミュージシャンだけが色んな音楽を取り入れるものだからそのごり押しのイメージを失っている。なぜか全員の共通項で有るべきタイムとリズムのうねりとして捕らえている。残念ながら世界中の民族音楽の人達と全く違う事をしているわけだよね。残念(笑)。
ごめん、また批判的なこと書いてしまった。
あと5年まってくれ、こんな事も段々言わなくなる。
今、なぜかダニーハザウェイを聞いている。これはもう民族音楽だな(笑)。
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再び有難う御座います!
まず、
>5年待ってくれ、こんな事も段々言わなくなる。
Xouさんが(笑)とともに展開されるお話は、とても興味深いので、5年と言わずずっと続けて欲しいくらいです。
リズム感の無いブラジル人、アフロアメリカンの話・・・。
陸上のジョイナー夫妻の唄を思い出しました。
アレは酷かった・・・。
さて、血じゃなくてイメージ、というお話。
北摂時代に「イメージというのは、何かフワフワした実体の無いようなもののことでは無い」、と仰っていたことが今更ながらピーンときました(何年かかってんねん!という話ですが・・・)。
あ!それから、ブラジル人のサンバをやってる子どもに、
「タカタカ」と16部音符をやってみて?
と言っても、自然にあの「カカルカ」になってしまうと言うお話も。
二つは全く別のタイミング・流れでの話題でしたが、当時の僕は二つを全く別のものとして、つまり後者を「血」の問題として捉えたようです。あたたた・・・。
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そして、これらを前提として後段へと参りますと・・・、先般ブログのエントリにもさせていただきました、「脳の使い方が違う」
http://ameblo.jp/kazutokimura/entry-10088119262.html
と言うお話にも繋がります。
さて、この「血」の話に至るまでの経緯としては、「遅い⇔早い」の問題があったのですが、パーカッショニスト間で話されるそれと言うのは、
「全員の共通項であるべきタイム」の中での「タイム感の相違」であることが殆どでは無いかと思います。
で、その「タイム感の相違」というのは、Xouさんのお言葉を借りれば「イメージ」の相違、と言うことになろうかと思うのですが、僕の感覚では「経験」と言うことになります(・・・今までの流れを見れば、脳の使い方としては演繹法に近いものを挙げ、「微妙なずれ」を感じる土台としては「経験」を挙げているわけで、ちぐはぐさは否めませんが・・・)。
例えば楽曲に○○アレンジを施そう、と言うことになったときに、○○音楽の経験の有無によって、Xouさんのお言葉を借りれば「イメージ」が異なるわけで、その結果として生まれてくる差異がリズム的な「遅い⇔速い」という感覚を生んでいると。
なので、話はこと、パーカッショニストに限定されたものでは無い、のではないか、と思うのですが、前回で述べました、「イメージのゴリ押し」転じて「怒ったような音」とご批評いただいたこと、更には、その後の僕自身の演奏上の心持の変化、と言う経緯がありました。
で、その「心持ちの変化」とは何かと申しますと、今まで述べてきたような意味での「リズム上でのイメージの相違がある中での演奏において」の心持の変化、ということになりますが、それは結局、「今・誰が歌っているのか、ということをより一層意識する」ということです。
これは、リズム的にさしたるイメージの相違が感じられない場合には極普通に行なっていることなのですが・・・。
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この「タイム感」を何とかしようよ。抽象概念が一人歩きしてる。分かりにくい文章の羅列になってしまう。
まず、僕はタイム感と言う言葉は使わない。
抽象的過ぎで誰も説明出来無い言葉だからです。
ぼくが使っているのは「タイム」と言う言葉。これは一小節にどれだけ時間がかかるかと言う事です。だから抽象概念ではなくて具体的な言葉です。例えばテンポ120の4拍子で一小節は2秒って事。
もう一度言い直すと。クラッシック音楽や邦楽の様にテンポを自由に変えられる音楽ではなくて一定のビートがある音楽ではタイムは一定である。したがってその中で早まろうが遅そまろうが長さは同じ。つまりタイムは同じ。もしこれが狂うと話にならない。つまり演奏不可能って事だよね。
シンクロしないんだから。
こうなる原因は簡単、技術的な未熟さが生み出す時間のブレだよね。それでこれは技術の向上が問題を解決する。
で、今言ってる話はつまるところ遅く感じるとか早く感じるとかその結果、暴力的に聞こえるとかって話でしょ。
この話と技術不足でタイムが狂う話は切り離さないと混乱を招く。なにもヘタクソな人間の習得途上の事をこの話の中で気にしてあげる必要はないからね。
さてと、そうなるとタイムが同一だとごり押しでいい。そのズレがグルーブを生み出す。
ッて話だけど、眠いから頭が回らなくなってきた(笑)。
グルーブって言葉は抽象概念かな?
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すみません!
言葉足らずでした。
僕が、
>「全員の共通項であるべきタイム」の中での「タイム感の相違」
と書いたとき、
「全員の共通項であるべきタイム」とは、Xou さんが少し前のコメントで書かれた「タイム」のことであり、
「タイム感の相違」とは、「タイムを前提とした上での」、譜割というか、ニュアンスと言うか、ノリというか・・・、仰る通り、「遅く感じるとか速く感じるとか」と言うことを生む源では無いかと思うところのことです。
で、ゴリ押しがごり押しとなるのは、一方がグルーブしていない、と感じている時であって、グルーブしている時は、例えゴリ押していても調和の中にある・・・つまり、ゴリ押しでありながらゴリ押しの形をとらないし、ゴリ押しと意識すらされていない・・・と言うような気がします(ゴリばっかりですね・・・)。
それは、「強烈なパルスを出している人は何も言わない」
と言うのとも通じるような気がします。
・・・そうは思うのですが、
「タイムが同一だとごり押しでいい。そのズレがグルーブを生み出す」かどうかと言うのは、解るところもあり、解らないところもあり・・・、と言うのが正直な実感です。
自分の演奏について述べるのでは、客観性にかけるので、他の具体例を挙げますと、ヨー・YO・マの、オブリガード・ブラジル(らいぶ)のM1・リベルタンゴなんですが、バチスタだけズレて聴こえます。僕には遅く聴こえます。
タイムが・・・ってことはあり得無いと思うのですが・・・。
ひょっとすると、ボンゴと言う楽器に対するイメージの差異から来るものかもしれませんが、他のパートとグルーヴしてるようには聴こえないのです。
でも、大メジャーでリリースされてるわけで、当人達は問題を感じなかったと言うことだと思うんです。
これを聴いて何も違和感を感じ無い人がおり、僕の耳が腐っているわけでもない、となれば、グルーブとは相対的なものである、・・・と言うことになってしまうのですが、今日は僕が眠くてダメです・・・。
ここで、グルーブは抽象概念か?
と言う、
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↑のコメントの余白の後は消し忘れで、まだ続くかのような感じになっていますが、消し忘れです。
消し忘れですが、
「グルーヴ」とは抽象概念か否か?
というお話について上のコメントの流れを汲みますと、
「抽象概念ですらない」
と言うことになりましょうか・・・。
ミュージシャン同士で話していますと、頻繁に使われるこの語ですが、明確な定義づけがされた言葉ではないような気がします。
先に定義された、「タイム」の如き、疑いの無い共通感覚としての抽象概念までには至っていないのでは無いでしょうか。
さて、この「グルーブ」と言う言葉、個人的には、波、うねり、のイメージを喚起されるのですが、
groove と言う単語にはそんな意味は含まれておらず、
「n. (木・金属に彫った)細いみぞ; (レコードの)針みぞ; わだち; 常道, きまり, 慣習; 適任; 絶好調.」
と言った意味があると言うのは、今goo辞書で調べました。
どこかで刷り込まれたものなのか思い込みなのかその出自は不明なのですが、僕の場合、一人のプレーヤーに的を絞った時には、「リズムのうねり」と言った意味で「グルーヴ」を捉え、
複数のプレイヤーで演奏する時のそれには、すぐ上のコメントでもありますように、「調和の中にある」と言った状態を充てているようです。
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ただ、問題は上のコメントに挙げたリベルタンゴの具体例のように、「同一のものを聴いても同じように聞こえない可能性」のことで、(・・・コレを言いだすと、一昔前に戻って認識論を勉強しなくてはならないのか?という、展開になりそうなので、「好み」と言うことで片付けたいのですが・・・)、そういった方向からも、抽象化することが出来ず、むしろ、個別の具体的な感覚が存在する、と言うことになってしまうなと。
今まで自分の書いた内容に筋を通そうとしますと、そうなるのですが・・・。
うががが・・・。
コレではまるで不可知論者じゃないですか!
あぁ~!解った。
演奏がうまくいっていない時には相対主義的、不可知論者的価値観がプレーヤー間に乱立し、逆にうまくいってる時には共通感覚が生まれていると。
とすれば、
groove=みぞ; わだち; 常道, きまり, 慣習
と言うのも合点が行きます。
つまり、公約数が沢山あればあるほど良い演奏が生まれると。
う~む、まだまだ熟考が足りないようですが、今日はこの辺で・・・。