本日も敢えて電車にて移動でございます。
昨日ご紹介した本の続きを読んでおりました。
やっと、体の使い方の記述もちらほら出てきまして、読書以外のもう一つの電車移動の理由、すなわち「歩く機会を増やす」事に関連する、まさに、歩行についての記述が特にヒットでありました。
私がウォーキングをする際に心がけている事は、足云々よりもむしろ、腕の振りについてでありまして、腕を振る事によって足の運びもしやすくなるのですが、動かす部位としては、肘を支点にして、その先を振子状に動かすのが、最も効率が良いようです。競歩ほどの力強さはありませんが、気分は「池中玄太80キロ」です。
一般的にスポーツとは、より強く、より速く、より遠く、と言うような力の増大に神経を割く分野であり、、身体の各部位のダイナミックな動きが必要で、その為には、「捻り、ひねり、うねり」を有機的に組み合わせなくてはなりません。
この一連の状態は、つまり、何がしかの体の動きに、より大きな力をもたらすために必要な動作なのです。
しかし、例の本によりますと、基本は「捻らない、ためない、うねらない」であります。
また、各部位の絡み方は、個々の部位がある動作のために時系列的に伝達されていくような仕組みではなく、各部位が「一斉に」その動作へ向かうという絡み方であるとも。
そのような歩行の様子を指して曰く、
「薄氷を渡るが如し」と。
これは、体重移動からみると、おのおのの足が、ひとあしごとに・局所的に地面を蹴るかのようなものではなく、あたかも雪中で「かんじき」をはいて、体重を分散させて歩くようなイメージでしょうか。
それと、江戸時代には、右手と右足、左手と左足、を同時に動かすか、或いは動かさないか、と言う事だったようです。
・・・とここまで考えたら、後は帰り道は「江戸式ウォーキング」実践タイムであります。
頭で分かった事をやってみますと・・・
腕の振りが無い(正確には体が前進する事に伴う動きがあります)状態での歩行では、必然的に歩幅は普段歩いているより大分狭く、細かくなります(した)。
すっ、すっ、とリズミカルに、薄氷の上を歩く(心積もりな)ので、両足裏が接地している時間が短くなり、体の上下の振幅も減少。
そして、何より、今までよりは明らかに足の痛みが少ない(何故足が痛むのかは「腰痛関連」カテゴリをご参照ください)。
これは、ひょっとするとひょっとするぞ、と言う手ごたえと共に、明日以降の生活の場面でリサーチを深めようかと思った次第です。
ちょっと本読んだくらいでどうって筈無いですものね。
その他、チャンバラの殺陣に突っ込みいれていたり、忍者の驚異的ジャンプ力はホンマだろう、と言う話など、終盤なかなか面白くなってまいりました。
・・・しかし、どうして歩行時の腕の振りは現在と江戸時代とは逆なのでしょうか?
そして、それはどういうタイミングで?
みんな一斉にそうなったのか?
間違いなく、これは維新後の近代化と関係がありそうですが、それは、古来よりのものの考え方、価値観、精神の有りようについてはもちろん、体の捌(サバ)き方にも影響を及ぼしていると言う事で、維新以前~古代に繋がる文化に興味を持ったのでした。
・・・してみると、対象の違い及び、歴史=時間をキーとするか、パラレルな空間をキーとするかの違いこそあれ、私が各地の民俗音楽に惹かれるのも、「非西欧近代的」なものへの憧れがあるからかもしれない、などとも思ったのでした。
因みに、江戸式ウォーキング、見た目は決してよくありません。
それこそ、西欧近代的には。
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まいど
以前右手と右足が同時に前に出る歩き方についてテレビ番組でやってたのを見ました。
「ナンバ歩き」だったかなんかそんな名前でした。
それは江戸時代までは腰に刀を差していたからその方が歩くのに適している、だとかその番組で
は言っとりました。
で、それを陸上選手の100メートルで今一番日本で速い、なんとかっていう選手も研究して活かしているとかっていう番組でしたな。
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そのひとはスエツグシンゴ選手でした。
あの方あまり太腿を高く上げずに走るのもそんなところから来てるとか言っていたような気がします。
それから以前リクエストに応えていただいて感謝しております。
暴力で解決してしまうのが意外でおもしろかったです。
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そうそう、「ナンバ歩き」って書いてあった。そうか、刀のせいか。
ん?まてよ。飛脚とかも帯刀してるんだろうか・・・と思ってググって見ると、ナンバ走り=飛脚走りという説もあり、こいつぁ、一ネタできた。
ありがとよ。
つうか、忙しいんで無いの?
あ、むしろ、夜間は一人か。
「川の字」が待ち遠しいね。